黒犬の学校生活

介助犬になるための訓練記録です。
(1999年5月から2000年7月まで)
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写真にはALTで説明文があります(マウスを置くと説明が出ます)。
基本? の話
合図
お受験・その2
先輩犬ゴールディ
ステュワートさんのこと
お受験・その1
悪い癖

*ページを分けました。続きはこちら*

初級クラスでの訓練風景。 基本? の話
 黒犬と相棒が通っているのは、ツーソンにある介助犬育成施設のひとつ、「TOP DOG」。4月に犬と飼い主で面接を受け、訓練に入ることが認められました。

 5月から始まったクラスでは、とにかく基礎訓練のくり返し。この段階で、犬と人の関係をしっかりと作るのが目的です。

「sit」「down」「wait」「stay」「heel」「come」の他に、こっちを見て! を意味する「watch me」と、前の指示の終わり(例えば前の指示がstayだったら、その場所からもう動いてもいいよという合図)を意味する「release」が、最初の3ヵ月のセッションの課題。
 いつでも主人に注目でき、仕事が終わればリラックスできる、というのは、24時間必要に応じていつでも仕事をする介助犬には必要なことです。
 信頼される飼い主と喜んで指示に従う犬、が目標。犬を叩いたり、怒鳴ったりすることはありません。ゆっくりと少しずつ、犬と飼い主双方が学んでいきます。
 指示に従わない時ははっきり叱り、きちんと出来たら思い切り褒める――叱ることと罰することは違い、褒めることと甘やかすことは違います。…って、言うのは簡単なんだけどね。

 ニッキーが指示に応えてくれれば嬉しいし、きちんと受け止めてくれなければがっかりします。まだまだへたくそだけど、褒める時・叱る時に、その気持ちをニッキーに伝えられれば。私が嬉しければニッキーも嬉しい、という関係を持ち続けていたいんです。勿論ニッキーが嬉しい時にそれを嬉しいと思える飼い主でいたい。
 それがあれば、いい介助犬とユーザーのチームになれる…よね?


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ステュワートさんとマリア(S.プードル)。亡くなる1ヶ月前の写真です。 ステュワートさんのこと
 ステュワート・ノーデンソンさんは、TOP DOGの創設者。「犬のように考えることが出来る人」と、彼を知る人が言います。四肢・体幹・言語に重度の障害を持つ脳性麻痺のステュワートさんは、トレーナーとして、彼自身の歴代4頭の介助犬をはじめ、多くの犬を育ててきました。
 96年にTOP DOGを見学した時、部屋に入ってきたステュワートさんを見て「ああ、参考のためにいちばん障害の重い人を呼んでくれたんだ」と思ったのは私です。この人がヘッドトレーナーで、彼の介助犬は訓練競技のタイトルもUDまで取っていると聞いて、
えーっ! と日本語で驚いてしまいました。
 もうちょっとで「
げーっ!」と言いそうなのをぐっとこらえて「えーっ!」だったんです(大して変わらない?)。

 この人に「私にも出来たからね、大丈夫、君はいい介助犬を育てられるよ」と言われなければ、アリゾナまで犬連れで来ることもなかったでしょう。
 イエロー・ラブのローラが、指示を聞き取れない時にじっと彼の顔を見て次の指示を待つのが印象的でした。それでも判らなければ、ローラはまわりを見回して、何が必要なのかを考えるのです。何か落としたのか、ドアを開ける必要があるのか、上着を脱がせるのか…。
 体を使って犬を動かす代わりに、犬自身に考えさせ、時間をかけて学ばせていくのが、ステュワートさんのやり方だったのだと、私は思います。何をすべきかを考えて行動できる犬――それが彼が必要とした犬なんだと。
 もっとも、ステュワートさん自身は、自分の方が犬から学んでいたんだというに違いありません。

 ステュワートさんは上級クラスのインストラクターとして、生徒の指導にあたっていました。この人のやり方を直接教わるのが、とても楽しみでした。あの時私の背中を押してくれたお礼を言いたかった。

 10月に、ステュワートさんは脳腫瘍のため亡くなりました。最後の愛犬マリアと共に、トレーニングセンターで引退の挨拶をしてから1ヶ月後、62歳でした。
 ありがとう、安らかに。


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車椅子を引く黒犬ニッキー。 合図

 黒犬ニッキーがばたばた走り回ったり、そこら辺のものをくわえて無意味に左回りを続けていたり(奴はそういうことをよくやる)するのを見て、「ハーネスを外すと普通の犬だね」と微笑みつつ言われることがあります。
 そう言われると…実は非常に恥ずかしかったのです。つい最近まで、ハーネスを着けようが外そうが、ニッキーは大して違いを感じていなかったんですから。
 これには理由があります。第一に、ハーネスが何種類かあること。車椅子を引くことを重視したハーネス、バックパックと組み合わせて使うもの、反射テープがついたケープ型のもの、育成機関から支給された大き目のケープ。ニッキーにとっては着けていることを忘れてしまう軽いケープと、水飲みやうん○袋が入ったちょっと重いバックパックは違うものなのです。
 第二に、私にはこまめにハーネスを着けたり外したりしてやれません。排泄のたびにハーネスを外してやること、外出先でちょっと走らせてやる時に外してやることが出来なくて、ニッキーはハーネスを着けたまま排泄したり、走ったりすることもあります。ほんとはいけないんだよね。
 ただの散歩でも、どうしても所々でニッキーに車椅子を引いてもらうから、散歩でも必ずハーネスを着けるニッキーは、もしかしたら日本製の赤いハーネスは「お散歩用」と思っているかもしれません。ハーネスを見て狂喜乱舞するニッキーに、「お仕事が大好きなのね」と言う人もいるけれど、ただ外出が嬉しいんでしょう、きっと。

 そんなニッキーが、それなりに「仕事の合図」だと思っているものを発見しました。
 普段部屋の中は伝い歩きか杖歩行の相棒が車椅子に乗ると、寝ていても起き上がって駆け寄ってきます。相棒が車椅子に乗っていれば大人しく左側についたまま、車椅子から降りると自分も勝手に遊び始めるのです。車椅子のブレーキをかける音を聞くと座り、ブレーキを外す音で立ち上がるニッキー。
 確かに、ニッキーの仕事のほとんどは車椅子と関わっています。というより、車椅子で外出する時のために必要なことを訓練された犬がニッキーなのです。
 へぇ、半犬前のにっきもちゃんと考えてるんだ。――と、ちょっと嬉しかったのですが、一度友達と食事に行った時、テーブルの下で大人しく伏せていたニッキーが、お店の人が車椅子を通路からどけようとした途端飛び出してきて、犬がいることに気づいていなかったお店の人を死ぬほど脅かしてしまいました。
 ニッキーにしてみたら、他人が相棒の車椅子を持っていってしまうことは一大事だったのです。お店の椅子に座ったままの相棒と、持ち去られる車椅子を見比べて、情けない顔をしていました。

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Underの指示で、テーブルの下に伏せるニッキー。 お受験・その1

 私達のプログラムの訓練は、初級・中級・上級に別れています。初級クラスでは家庭犬としてのオビディエンス(服従訓練)、中級クラスでは街頭訓練や誘惑を使った訓練でオビディエンスを強化しながら、介助犬の仕事に応用する動作を教えます。
 前足を台の上にあげる・後ろに下がる・物をくわえる・前足や鼻で物に触る・テーブルの下に入る…こういう動作の組み合わせで沢山の仕事が出来、外出した時のコントロールも確実になります。
 中級クラスの卒業試験は、まずトレーニングセンターで、オビディエンスと基本動作をきちんとこなせるかどうかを見ます。これは至って簡単? だったかな。全員が順番にインストラクターの指示で一通りの動作をして終了。その次の試験が、Public Access Testと呼ばれる、ちょっと厳しいものです。

 少しその背景を説明しましょう。
 アメリカでは、全てのservice animal=介助動物に、公共施設・交通機関の利用が認められています。介助動物とは、盲導犬・聴導犬・介助犬・seizure alert dog(発作警告犬)と、その他障害を持つ個人のために必要な仕事をする犬・または他の動物(小型の猿、馬、猫など)を指し、正確にはこの動物たちに権利があるのではなく、障害者に「介助動物と共に公共の場を利用する権利」が保障されているのです。
 各州やカウンティの法律もありますが、この権利を初めて全州で保障した法律が、1990年のAmericans with Disabilities Act(ADA:アメリカ障害者法)で、簡単に言えば障害を理由にした差別を禁じた法律です。例えば、レストランが盲導犬を連れた視覚障害者は入っていいけど、聴導犬を連れた聴覚障害者は駄目、と言ったら、それは障害者に対する差別として法に触れる訳です。

中級クラスでニッキーの苦手なBackの訓練。左はインストラクターのベス。

 さらにすごいところは、訓練中などの(認定証を持っていない)介助動物にも、同じ保障がされていること。正確には「認定を必要としない」という言葉は「障害者が必要とする介助動物なら、特別な育成団体の認定のないものでもいいよ」という意味だと思うのですが、障害のないパピーウォーカーさんが連れたパピーも公共の場所で見かけます。アシスタンス・ドッグの育成機関が多いツーソンだから寛大なの?
 一方、これは日本でもよく言われていることですが、(卒業した犬でも)訓練不足で公共の場に出た犬が周りに迷惑をかけることもあるのです。勿論これは多いに問題あり
 そこで、盲導犬・聴導犬・介助犬の育成機関が集まったAssistance Dogs International(ADI)では、加盟機関で訓練を受ける犬について、最低これだけが出来なければ、公共の場に出すべきでないという基準のテストを作りました。これがPublic Access Testです。
 このテストは、盲導犬・聴導犬・介助犬に共通。訓練士による基礎訓練の修了時や、ユーザーとの共同訓練中に、それぞれの「仕事」の能力のテストとは別に行われます。

 中級クラスを修了したパーティの日、運悪く40度近い熱があって持ち寄りのご馳走が食べられず、ひたすらソーダの缶でおでこを冷やしていた私に、トレーニングディレクターのリディアが突然言いました。
「あなたとニッキーのテストは今度の水曜日、場所はここに書いておくからね」
 私はこのテストの内容を知っています。ハイパーで誘惑に弱いニッキーにはまだ無理! としか思えませんでした。
「だって…このニッキーだよ?」
「そう、あなたの素晴らしいニッキーは、もうテストにパスできるよ。ここに初めて来た時のことは忘れなさい」
 リディアは笑って付け加えました。「あの時のニッキーは
ひどかったけどね
 そのニッキーがプロの訓練士が訓練した犬達と同じ試験を受ける…。私は一気に熱が上がった気がして、新しいコークの缶で頭を冷やしたのでした。

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輸送サービスのバンに乗り込むニッキー。  お受験・その2
 お受験前日に、トラブル発生。いつもニッキーを連れて出かけるのに利用している市営バンの予約が、その日に限って取れなかったのです。バントレインと呼ばれるこのサービスは、バス利用が困難な障害者や老人を、車椅子対応のバンで目的地まで運んでくれるもの。事前に利用登録をしておけば、電話一本で予約でき、予定の時間に家まで迎えに来てくれます…が、時には予約が取れないことも。
 まだ許可を貰っていないニッキーをバスに乗せる訳には行きません。バスに乗せても安全! と言えるのはテストに合格してからなんだから。まず私は、試験場所に指定された大型小売店までニッキーを連れて歩いていくことを考えました。ニッキーも適度に疲れて大人しくなるから一石二鳥! ちょうど日本から、砂漠のツーソンを見たいという
物好きなお客様が来ていたので、途中車椅子を押してもらえば何とかなるだろう、と人を当てにした名案? でした。
 ところが試験の責任者リディアは事情を聞いて、それなら許可するからバスで来なさい、とオソロシイことをのたまうではないですか。ニッキーがバンではきちんと伏せていられること、今回は万一の時にも犬を抑えられる健常者のお客様が同行することを考えての許可です。テストの前にニッキーを疲れさせたいから歩きます、とはさすがに言えなかった…言ったら怒られたろうなぁ。
 それにしても、はるばる日本からツーソンにやって来て、いきなりこき使われたお客様…ごめんね。

トレーニングセンター前で、TOP DOGの人達とお客様。

 お受験当日はもちろん快晴。ここはツーソンですから。
 力仕事は任して、というお客様の協力と乗客のみなさんの寛容さで、ニッキーも問題なくバスに乗り、市内の大型小売店に到着。このテストは実際に店で行います。実際の騒音や人ごみの中でテストするのです。
 ニッキーと相棒、そしてお客様が到着すると、ディレクターのリディアとインストラクターのナンシーが駐車場で待っていました。笑顔でそっちに向かっていくと、リディアの足元の大きな茶色い紙袋だと思っていたものがだと判明。既にテストは始まっていたのです。目の悪い私が気づいた時には当然ニッキーも犬の存在を知っています。笑顔のまま目だけ笑えなくなる私。受験生ニッキーは相棒に従って犬とすれ違わなければいけません。
 人が大好き・犬も大好きなニッキーにとって難関でしたが、相手の犬があまりに落ち着いて(紙袋と間違えるほど)いたのでつまらなかったのか、ニッキーは静かに通り過ぎ、難関突破。
 いかにもアメリカ、広い駐車場で車から降りるのが次の課題。リディアの大きな車を借りて、「Jump up」の指示で犬を車に乗せ、「Wait」で待たせながら、パートナーは少し車から離れます。「Come!」――車から降りたニッキーがまっすぐ相棒の元に来ました。車のシートにニッキーが身体をこすりつけてしまったけれど、まあ合格。
 次は建物の入り口まできちんと歩かなければなりません。車椅子を引くことを教えられているニッキーは先に立って引っ張って歩こうとすることがあるので、声をかけながら大袈裟に車椅子の速度を落とします。引くんじゃなくて、ついて歩く練習だよ、とこうして伝えるのです。私の手首に結びつけられた短いリードは、途中ぴんと張ることもありましたが、ニッキーはすぐに気づいて速度を合わせてくれました。入り口では犬を待たせ、人間が先に通ります。

ボランティアのジュリーのお孫さん、ジャスティンと。

 店内では、沢山の誘惑や刺激の中でマナーが試されました。いろいろな状況で、インストラクターの指示どおり犬を座らせたり、伏せさせたりして、落ち着いて指示に従えるかどうかをチェックします。
 
目の前に食べ物を置かれたり、ショッピングカートが追い越して行ったり。音に対する反応を見るために背後でクリップボードを落とされた時は、ニッキーより相棒が驚きました。今だから告白。
 座った犬を人が撫でるテスト。人に撫でられるのが大好きなニッキー、座ったまま動かずにいるのは辛かったかもしれません。ナンシーが落ち着いた声で話しかけながら撫でるので、それにつられて? 大人しく座っていました。
 伏せたまま子供に撫でられるテスト。子供にはいつも穏やかなニッキー、心配なかったのですが、通りすがりのほんとに知らない子供が試験に協力してくれたのは驚きでした。
 簡単な説明で、母親が納得してくれたことも勿論ですが、小さな子供でも「撫でてもいい?」と飼い主にきちんと聞き、優しく犬を撫でます。日本よりずっと、犬と暮らすことが当たり前であること、犬との接し方がマナーとして教えられていることを感じました。
 日本と違うといえば、伏せた犬の背をまたいで人が通るテストも。日本で時々ある、しっぽを踏んだり足を踏んだりするテストの代わりがこれです。
 ニッキーは最初これが苦手でした。横からまたぐ分にはいいけど、正面で特に男性が足を上げると、後ずさりします。私のところに来る前に、蹴られたことがあるのかもしれません。そのニッキーが、訓練を繰り返してようやく「蹴られない・怖くない」と納得し、平然と人にまたがれていました。
「Get leash」の指示でリードを渡すニッキー。万一のための訓練です。
 通路を歩きながらリードを落とします。犬に分かるようにリードを放しても、犬がパートナーの側を離れないかどうかのテストです。数歩歩いて車椅子を止め、2歩ほど先に行ってから気づいて慌てて戻ってきたニッキーに指示して、リードを渡してもらいます。
 ニッキーにはこの時、リードをくわえて遊びに行く自由もあったけれど、私の横に戻ってリードを返してくれました。そう訓練したとはいっても、実際に沢山の誘惑がある中でリードを渡された時は、Good! のあとに、ありがとう、と日本語がこぼれました。
 いよいよ最後、レストランのテーブルの下に伏せるテストは、軽食コーナーで。いい加減疲れていたニッキーは、床に散らばるポップコーンに見向きもせず、「Under」の“あ”を聞くやさっさと伏せて、ぶーぅ! と鼻を鳴らすと寝てしまいました。12月の1日にテストをしたのですが、天気がよかったし昼間だったし、バス停から少し歩いたし、ニッキーは早く冷たい床で休みたかったに違いありません。

「今日から、あなたが障害者である限り、そしてニッキーがあなたの手助けをする限り、彼は介助犬としてどこにでも行っていいよ」
 ニッキーの行動を細かく書きとめた採点用紙に、最後の項目を追加してリディアが言いました。
「ニッキーはよくやったね。飼い主がこんなにナーバスになってたのに」とナンシー。
 ふたり揃って「もっとニッキーを信用しなさい!」と付け加えられ、お受験な日は終わりました。
 ニッキーが立ち上がったらどうしよう、吠えたら、引っ張ったら…と心配している私を見ながら、ふたりは「彼女がニッキーを怒鳴ったり叩いたりしたらどうしよう」と心配していたそうです。そうしたら、信頼関係が出来ていないとして試験は合格しないから。

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同級生達、インストラクターと。 悪い癖
 晴れてハーネスを着けて公共の場に出ることを許されたニッキー。でも、この段階でも彼は「よく訓練された」犬ではありませんでした。試験では、最低限の安全と、私が犬を言葉で制御できることが証明されたに過ぎません。
 ニッキーの問題は、基礎訓練開始の時から「人に飛びつくこと」「リードを引っ張ること」の2点でした。勿論、最初の時に比べたら天使のように素直なよい子になってはいたのですが、飛びついて親愛の情を示したい気持ちと、もっと速く歩きたい気持ちは、マグマのように地下で燃えていたようです。
 No jump!=飛びついては駄目! Heel=横について歩きなさい、という指示は当然理解しているニッキーは、トレーニングセンターやいつもの散歩コースではもう飛びつくことも引っ張ることもありませんが、時々テンションが上がるとつい引き気味になり、褒められた勢いでつい膝に前足をかけたりします。そこで私は、車椅子を引く訓練と後足で立ち上がって作業する訓練はなるべく後回しにすることに決めました。リードを引いては駄目・ハーネスで車椅子を引くのはOK、この区別は犬には難しいはずだから。
 一旦ハーネスを着けて外に出たら、もうニッキーも介助犬として扱われます。以前よりもマナーに気を配らなければ! 試験に合格したらばりばり介助動作を教えるつもりでいましたが、いざ許可を貰うと、まずは基礎をもっとしっかり、という気持ちになるのです。

立ち上がって自販機のボタンを押す訓練。

 ニッキーがリードを引っ張るのは、私が車椅子に乗っている時だけ。歩ける人にリードを預けた時はおとなしく歩きます。私との散歩で「車椅子は引っ張れば動かせる!」と知ってしまってから、引っ張り癖がついたようです。はい、悪いのは飼い主です。
 車椅子を安全に引くことは、介助犬としてニッキーにいちばんして欲しい仕事でした。それを後回しにしなければならないのは、なかなか辛いのです。車椅子を引くためのハーネスを着けたニッキーが「いつでも引っ張ります!」って顔してるのに、でこぼこ道も上り坂も自力で車椅子をこぐ、というのも、意志と筋力の弱い私には拷問でした。
 必要な作業と直すべき癖が似ていることで、訓練も難しくなりました。陰性強化、つまり引っ張ったら首輪のショックのような嫌なことが起こる、という方法を使うと、悪い癖は早く直るかも知れませんが、その後で車椅子を引くのを嫌いになる可能性もあります。時間がかかっても出来た時に褒めることを中心に…これは、人間の方に根気と覚悟の必要な訓練でした。犬には楽しかったと思うけど。
 私のために愛犬に働いてもらう以上、ニッキーの好きなこと・得意なことが仕事に結びついて欲しかったのです。得意なことを褒められて、自信を持って働く犬でいて欲しかったのです。全ての介助犬がしあわせかどうか、私には断言できません。ただニッキーだけは絶対に、しあわせな介助犬になって欲しい。
 犬種が同じでも、きょうだいであってさえ、犬の性格は個々に違います。車椅子を引いて欲しい私が引きたがるニッキーに出会えたことは、幸運なのでしょう。留学生として滞在できる期限が決まっているから、訓練に時間がかかるのは困るのですが、この頃、私の気持ちは少しずつ変わって来ていました。
 目的に合わせた犬に作り上げるのではなく、ニッキーの中にあるものを育てるんだ、と。

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リサが落としたコインを拾い上げたゴールディ。この日はヘッドカラーを着ける練習中でした。 先輩犬ゴールディ
 ステュワート同様、私の大切な師であるマーディは、警察犬の訓練士をしていた時に事故に遭い、脳を損傷して障害者となった人です。それからはずっと、自分と同じ立場の人達にアシスタンス・ドッグを無償で育成しています。
 視覚障害を持つリサは、身体のバランスや握力にも障害があるため盲導犬協会では受け入れてもらえず、マーディに犬の育成を依頼しました。マーディは、動物管理局で処分を待っていた犬の中から人間が好きで褒められようとする意欲のある1頭の雑種犬を選び、リサの障害に合わせた訓練をしたのです。
 その犬がゴールディでした。一見ラブラドールに見えるけど耳が少し短く、シェパードに似た目をした素敵な女の子。

 リサとゴールディに初めて会ったのは、ツーソンに来て間もない頃。大きな会議の会場だったホテルのロビーで、雑種の犬が正規の盲導犬同様に働いている姿は、気持ちのいいカルチャーショックでした。そして、その訓練をした人が車椅子と呼吸器を使う重度の障害者だと聞いて、とにかくその人に会いたいと思いました。
 もしかしたら、本当に、車椅子の私がニッキーに誘導を教えられるかもしれない!
 まだまだ英語が話せなくて特に電話は苦手だった頃だけれど、教えられた番号に電話をかけた私は、日本からやってきた理由、自分の障害、相棒ニッキーの性格やその時の状態をめちゃくちゃな発音と文法で伝えました。そして聞いたのです。「ニッキーは、私の目になれると思いますか?」
 答えはイエスでもノーでもありませんでした。「それが出来る犬も、出来ない犬もいます。出来る可能性があれば、ほんの少しずつ教えていくことです」
 初めから目的のために育成されている犬ではなく、基本的なしつけもされずに放浪していたゴールディは、どうにかリサとの訓練に入るまでに1年以上かかり、最初の半年は彼女の脱走癖や盗み食いの矯正に費やされたといいます。
 リサは物をうまく握れないこともあり、落としてしまうと屈んで拾うのが大変なので、誘導だけでなく物をくわえて手渡す訓練やドアを開ける訓練も必要だったのですが、こともあろうにゴールディ、外見はリトリーバーなのに物をくわえるのが嫌いで、マーディとの根競べでした。―そんな話を、時々思い出話として聞かせられたものです。そう、遠まわしに「だからあなたも頑張って! ニッキーはきっといい犬になるよ!」というメッセージだったのでしょうか。

やる気なさそう。。。

 車椅子を引く訓練を後回しにしている間、ニッキーには「道の左端を歩く」ことと「車椅子の幅を身体で覚える」こと、それに、「ドアや段差で指示無しに止まる」ことを要求しました。駄目でもともと、時々マーディに指導を受けながら、誘導の基礎を教え始めたのです。
 放浪していたゴールディも、家庭犬としての経験を持たないニッキーも、アシスタンス・ドッグとしてのスタートラインは結構悲惨でした。けれど、ゴールディは今、主人の安全を護る「Intelligent disobedience(利口な不服従=危険と判断した時は敢えて命令に背くこと)」まで身につけて、リサの目として働いています。車のエンジン音に敏感に反応しながらパーキングロットを横断する彼女は、自信と仕事意識に溢れた素晴らしいサービス・ドッグでした。
「自信」と「仕事意識」は、ニッキーに最も欠けていたもの。私のところに来た時のニッキーは、自信がなくおどおどして、オーバーに褒めれば興奮し、ちょっと強く叱ると固まってしまう状態でした。1年間の家庭犬生活と半年間の訓練で随分表情豊かになったとはいえ、まだ役割を与えられている犬の生き活きとした表情ではありません。ゴールディのように、そして沢山の先輩犬達のように、誇らしく仕事をする日が来るでしょうか。
 それでも、ニッキーも頑張れるかな、ニッキーほど頭のいい犬ならきっと…、と、自分の犬に甘い私はどこかで信じていたようです。

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